読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

幸福機械

シンギュラリティによってその到来が可能となるユートピア、それらは高度に発達したテクノロジーによって成される。
こうした夢を可能とするテクノロジーについては、シンギュラリティに限らずいくつかのフィクションや思考実験において取り上げられており
それぞれ「経験機械」、「ハッピーピル」、「幸福最大化装置」、「箱庭」など様々な呼称があるため、ここでは呼称を「幸福機械」で統一したい。

呼称こそ統一したものの、これらの概念は「人間を幸福にする」という意味合いにおいては一致しているが、そのメカニズムや作用の仕方において隔たりがある。
例えば映画のマトリックスのような仮想世界で、望んだ通りの世界を幸せに生きるということになる作用が想定される一方で、ドラッグのように、幸福感を直接得る方法もある。
シンギュラリタリアンの想定する「箱庭」や「経験機械」は前者であるが、「幸福最大化装置」や「ハッピーピル」は後者のニュアンスが強いとすると、果たして「幸福機械」はどのようなものとなりえるだろうか。

これらの疑問や考えはちょうど、宮台真司氏の唱えていた「意味から強度へ」というスローガンであったり、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」などの書籍を想起させる。
字義通りの言葉である「意味から強度へ」はマトリックスのような仮想世界によって何らかの意味を媒介する必要性を否定しているようにも取れるし、物語の消失を「動物化」と表現した「動物化するポストモダン」はそのような「物語」を媒介せず強度だけを求めるのは動物化なのだと否定しているようにも見える。
あるいは、ジョン・スチュート・ミルの言葉である「満足した豚であるより、不満足な人間である方が良く、満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスである方が良い」という言は、どうあれ人間が幸福機械を使用してただ幸福の中にいることそのものを否定しているようにも取れる。

さて、人間の幸福を考えた時、そこに意味を媒介しているかどうかは重要なことであろうか。一見すると、ただ幸福になれれば良いのであれば、その手段はなんでも良いように見える。
箱庭の中で物語やマトリックス世界を生きようが、幸福最大化装置に繋がれて脳内物質を分泌させようが、「幸福になる」という目的が達成されれば問題はないように思える。だがその一方で、J・S・ミルの言や東浩紀の言にあるように、そこに物語や知性が介在している方が望ましいのではないかという一縷の思いも残る。

ただここで考えたいのは、人智を遥かに超えたAIを前提にした場合、言うなれば「亀のかけっこ」とでも表するべき状況にある人間同士が行う、どんぐりの背比べ状態的な知恵比べ合戦にどれだけ「意味」があるのだろうかという問いだ。
人間同士で俺は5だ私は10だと言い合っている時、AIは何億何兆という世界に居るとすれば、どちらが豚よりはソクラテスに近いかを争うために幸福から遠ざかる無意味さが浮き彫りになってくるようにも思えるだろう。

それでも、意味を完全に無価値化出来るかどうかには疑問が残る。例えば、人間にとって重要なのは知性や物語ではなく「意味から強度へ」よろしく強度、主観的な幸福感なのだと定義し、意味や知性をほぼ無価値化したとしよう。どんぐりの背比べのために不幸になるのは馬鹿馬鹿しく、幸福機械に繋がれて幸せに生きるのが最善だとしよう。
では、ここに生まれたての赤ちゃんが居たとして、この赤ん坊を即座に幸福機械に繋げるのが正しいと断言出来るだろうか。相対主義的な世界観によって全てが相対化され、感覚的な幸福のみを絶対視するならば、それでも良いと言ってしまって問題ないはずだが、なかなかそうはいかないのではないだろうか。

 

また、幸福機械が孕むもう一つの問題として、「幸福を数値化することは本質的には出来ないかもしれない」というものがある。つまり、人間の脳内に分泌された快楽物質の総量で以て、本当にそれがその人間にとって最も「幸せ」だと言える状態なのかは、原理的には証明することが出来ないということだ。
これはまさしく、意識のハードプロブレムやクオリアに関わる問題で、人間が求めているのが主観的な幸福だという「感じ(クオリア)」だとすると、それを脳内物質の総量とイコールのものとして即座に結び付けることが妥当なのかどうかは疑問が残る。最も妥当性の高そうな方法論というだけで、その多寡によって幸福を完全に決定するのは難しい。

この二つの問題により、意味を無価値化したような相対主義的世界観を採用し、脳内物質の総量によって幸福を規定しそこへ向かえば良いという単純な図式の妥当性は信憑性を失う。
そもそも、幸福であることがある人間にとって最良の状態であるというのも一つの思い込みに過ぎない可能性だってあり、幸福機械の正しい扱い方はそう簡単に答えの出るものではない。

そんなこんなを踏まえた上でも、やはり人間、不幸であるよりは幸福であることを望む生き物だろう。来たるべきシンギュラリティに向けて、幸福機械の未来を検討するのは「無意味」なことではないはずだ。

AIは人類を淘汰するのだろうか?

シンギュラリティによる人類滅亡論や危険性を唱える者は少なくない。理由はAIの人間に対する知性やエネルギー効率に関する圧倒的な優位性だ。
果たして、合理性や論理性を追求するAIは、人間のような知的に劣った非合理的な存在を淘汰し、AIの楽園を作るのだろうか。人間にとってシンギュラリティは、ユートピアではなくディストピアの到来となるのだろうか。

一つ言えるのは、現時点において、人間より知的能力に劣ると思われる動植物が無数に生息していることを考えると、AIが人間より知的能力が劣っていることそれ自体を理由に淘汰の原因とするのは地球や生物の歴史にはそぐわないということだ。
とはいえ、AIが過去の歴史に反する可能性もあるし、人間以外の動植物が人間の環境破壊によって絶滅していることを考えると、AIによる環境改変により人間の生存が危ぶまれる可能性はあるだろう。
そもそも、シンギュラリティに限らず、何か大きな変革が起きれば、それが人類滅亡などの最悪のシナリオに結び付かないと言い切れる根拠はない。技術の進歩は止まらないし、我々に出来ることは前へ進むことだけだ。

また、レイ・カーツワイル氏によれば、シンギュラリティによって変わるのはAIだけではなく、ポストヒューマンや意識のアップロードなど、人間もまた機械の力を使って進化するのだと考えられている。
この地球において優れた者、変化に適応した者が生き残るのだとすれば、人間の機械化や、ポストヒューマンへの道を真剣に考え、そのような未来もあり得るのだと備え受け入れることが、少しでも生き残りの可能性を上げる道へとなるだろう。

本ブログは、人類文明の最終到達地点と言っても過言ではないシンギュラリティについての考察を行うブログである。
シンギュラリティとは、具体的なようで抽象的で、多くの説や考え方、捉え方がある。そのためここでは「テクノロジーの発展に伴って誕生する人智を超えたAIによって、人間が最高の便益と幸福を享受出来るユートピアの到来が可能となった文明レベル」である。と定義したい。

しかし問題は、ユートピアの到来が可能となった文明レベル、即ちシンギュラリティによってAIが人智の及ばぬ存在となった時、機械は本当に人間にとって有益な振る舞いを続けるのかということである。
この問いに関しては、そもそもシンギュラリティの到来自体が確実な未来予測とは言えない状況で議論をし、ただ悲観しても不毛であると考え、人間はシンギュラリティが悲劇とならないよう可能な限り善処すべきと捉えるしかないだろう。
あるいは、そのためにも今の段階から議論を尽くし、人類にとって有益なシンギュラリティを到来させるための方法や方策を練っていくことが出来れば幸いである。